私にとっての叔父は目標でした。
叔父は、山形の温海(現鶴岡市)の漁村に生まれ6人兄弟の下から2番目、兄姉に支えてもらいながら地元の工業高校の建築科を卒業、上京して建設会社勤務後、設計事務所を開設した苦労人だ。
叔父には、父が請けた新築工事のプランやら確認申請の図書を作ってもらっていた。
当時は練馬に事務所があり、子供の頃、たぶん小学生高学年の頃から、よく父の車の助手となり叔父の事務所へ行った記憶がある。
叔父には私より4才年下の娘、6才年下の長男と弟がいる、私の妹、弟の様な存在だ。
中学の頃は叔父さんにお金をもらって練馬の息子達とプラモデルを買いに行き、父達がプランの打ち合わせをしている間、組み立てて遊んでいた記憶がある。
高校時代はもう行かなくなったが、大学に入り設計の課題が出ると、叔父さんに見てもらいに事務所に行った、大学の教授の次に辛口の評価をもらった記憶にある。
その頃の私は夢があった、打ちっ放しのコンクリートに非常に興味があり、東京都美術館や紀伊国屋の木目が転写されたコンクリートの肌が好きだった。
建築雑誌は新建築やSDを好んでいた、自ずと雑誌に出るような建築家・作品に憧れていた。いつものように叔父に図面を持って行くと、良くできている、でも「霞喰って生きて行けないからな」と言われた。
そのころは意味がよく分からなかったが、30年この業界で仕事をしていると叔父の言ったことがよく分かった。
叔父と叔母は私の目に良い夫婦で、一緒に仕事して羨ましい存在だった。
私が結婚するに当たって叔父叔母のように夫婦で仕事がしたいと言う思いを彼女に告白した。
私が就職・退職、実家の佐藤工務店に入っても、叔父の存在は保険のような存在だった。
何か判らないことがあってもいつでも聞ける、答えてくれる存在でした。おかげで私も家内と設計・施工のプロとして今まで生きてくることが出来ました。
叔父の2人の息子も大学の建築学科を出て、外で修行をし、一級建築士の資格を取って今は、奥様達を巻き込みながら大所帯の設計事務所となりました。
叔父も安心して旅発てたのではないでしょうか。
闘病中は相当痛かったと思いますが、私がお見舞いに行くと、ニコニコしていました。
ゴルフが上手く、設計事務所の経営者にとってゴルフは健康維持の為に必要な福利厚生費だ!と良く言っていました。
田舎の温海では素潜りでアワビやサザエの取り方を教えてもらったり、とにかく格好いい叔父でした。
亡くなられた今も私の目標であることは変わりません。
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